20KHz以上の音は聞こえないのに意味はありますか?

 ときたま寄せられる質問でもっともポピュラーなもの。質問の前提として「アップサンプリングは20KHz以上の高音を付加する目的で行われる」という誤解があるようだが、これは別のトピックとしてあげることにして、ここではひとりの愛好家として考えていることを書いておこう。

聴音テストについて
 健康診断で聴音のテストというのがある。防音ボックスに入って耳にヘッドホンを付けると、さまざまな高さの音が流され、聞こえたらスウィッチを押すというものである。このような方法で行われたかどうかはわからないが、本などにはさまざまな年代の人にさまざまな高さの音を流して、それが聞こえるかを実験したものが載っている。
 それによると年代によって高い音は聞こえなくなり、また全ての年代で総じて20KHz以上の音は聞こえないという結果がでたとある。余談だかCDの規格はそれを元に決められたというのがよく載っているが、CDの規格策定の当事者の書いた本をよむとこれは間違いのようである。規格策定の裏には国際的な、商業的などろどろとした経緯があったようである。
 さて世の中には別の実験で20KHz以上の音も聞こえるという実験結果もあるが、あえてどちらも正しいと考えたい。しかるべき条件で行われたテストである以上、その結果は適切なものであるとおもうのである。

音って何だろう 
 そこで思うのは音の高さって何だろう。素晴らしい音楽体験を音の高さだけで分析することは妥当なのであろうかということである。振り返りたいのは音はあくまでも空気の密度の変化であり、音の高さというのはそのある一定期間を取り出し解析した結果である。つまり高い音、低い音という信号が空気を伝わっているのではなく、あくまでも密度が変化する空気の波にしか過ぎないのである。
 小学校の音楽の教科書にあるように、音の高さは音を構成する要素である、とは決して思われない。音の高さとは、あくまでも人間の解釈、経験の共有に都合がいい道具に過ぎないとおもう。

音体験は思っているより広く深い
 音体験はその前段階のもので、もっと原始的な経験だとおもう。「この高音の伸びがすごい」と認識した時点ではすでにそれを表現するには遅く不十分とおもう。音はそれ自体でものすごい経験を与えてくれるものである。音体験はその人が持つその音にともに刻まれた記憶や、類似経験を呼び起こすような非常に豊かな経験である。これは人によっては街の雑踏や車の騒音も好ましいものになる理由であるとおもうが、音体験とは決して聞こえる音だけで構成されるのではない。ここで言う”聞こえる音”とは、あの消音ボックスに入ってスウィッチを押すという判断の元となる認識である。音体験はもっと幅広いもので、スウィッチを押すに至らしめる認識とは、そのほんの一部であるとおもう。

アプリオリでいいじゃないか
 ここで最初の質問に戻ると「20KHz以上の音は聞こえないのに意味はありますか?」に対する答えは、”聞こえる”というポステリオリ認識だけで判断するのはもったいない。この素晴らしい音経験は、音の高さという分析だけで立ち返って取り出すことは不十分で、アプリオリ経験の豊かさに近づくこともできない。である。
 音という記号を、音の高さという記号で知ることはそもそも限定的な試みではないだろうか。世の中にはあまりにも多くのことが、機器のスペックなどが、この限定的な理解を元に決められていることが怖い。